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No.32 「迷い」 [short-short]

 その男は、ファスナーに手をかけてゆっくりと開くと大事なモノを取り出した。

 すでに目前には縦長の翳った溝、目指すべき穴があった。その穴にそれを入れる

つもりで取り出して右で手の指で掴んではみたものの、男はそれまでの動きを止めた。

どうやら待ち望んでいた快楽の瞬間を前にしているというのに、この期に及んで

迷いが生じているようだ。

 さっさと入れちまうか、それとも我慢して止めるか?、どうするんだ?

男は自問した。

 後悔はしないと言えるのだろうか。入れたら入れたで自分が待ち望んで

いた満足が得られることは分かっている。でも同時に、失うモノもある。

それが道理だ。なにもかも自分のモノになるなどということはできないこと

ぐらい、いい大人なのだから、百も承知だ。選択は、本当に正しいのだろうか…

男は自問を繰り返す。

 (少しの時間、確実に幸せになれるんだぜ。何を戸惑うことがある?)

 男の心の中で何者かが囁く。

 (そんな刹那的な快楽に身を任せて、本当にいいのか?おまえには

他にすべきことがあるのではないか?)

 男の心で別の何者かが反論する。

 「分かってはいるんだよ…」

 躊躇する気持ちと欲望が葛藤しているのだろう。男が指を添えたところに

ある玉はその穴に近づいたり、離れたりを繰り返している。

 男はゴクリと唾を飲み込んだ。

 (男だろう、さっさと決めちまえよ。気持ちよくなれるんだぜ、さあ…)

 (これから先のこと考えているのか?本当におまえはそれでいいのか?…)

 (飢えていたのだろう、そうだろう?本能の赴くままに任せりゃあいい

んだよ、簡単なことだよ)

 (病気になったって、知らないよ。いろんな人が買ってるんだよ。

さわってるんだよ。不潔かもしれないし、どんなバイ菌がついて

いるかおまえ、想像してみろよ)

 (平気だって!ほとんどの人は何ともないのだから。よほどのことが

ない限り、絶対大丈夫だよ)

 (絶対なんて、あるわけないじゃん…)

 (とりあえず入れてみろよ!すぐに、どんなに素晴らしいかすぐわかるよ。)

 (でも、入れちゃったら、その快楽に見合うだけのものを、必ず失うんだよ。

いいのか?)

 葛藤は、続いていた。

 (いいぞぉ、おまえ。早く突っ込んでみなよ)

 (そういえば、おまえはまだ身体の中に入れた経験ないんじゃなかったか)

 (なにごとにだって初めてはあるさ)

 「いいや、入れちゃえ!」男は呟くと、指を添えていたそれを穴にいれ、その

少し上にあったボタンに指先で触れた。

 ガゴン!

 予想外に大きな音がして、下の口に清涼飲料水が現れた。

 男は自販機の釣り銭口からコインを取り出すと、小銭入れにそれを納めて

ファスナーを閉めた。


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